スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

和歌山有田川流域の仏像 その1

平成29年1月21日から和歌山県立博物館で開催されている企画展
有田川中流域の仏教文化-安楽寺多宝小塔修理完成記念を見学しました。
1-3
当日は主査学芸員の大河内先生による講座を拝聴し、知らないで見ているとただの
地方仏が、実は大変面白いもので、また仏像から地域の仏教文化が読み取れるという
推理に似た面白さを体験させていただきました。
館内の写真撮影OKといのも写真好きには嬉しいです。
聞いた講座といただいた資料を元に簡単に案内しますが間違っていたらごめんなさいです。
実際に見学していただくことをお勧めします。
1-1
高野山を源流とする有田川(元は阿弖川:あでかわ)流域は当初は安諦郡(あでぐん)と呼ばれていたそうですが時の平城天皇の名前(安殿親王:あでしんのう)と同じ読みであることから現在の有田郡に改められたそうです。
DSC_1344.jpg
高野山に近いこの地域、実は高野山の荘園ではなく京都のお寺が支配していたそうです。
ここは高野山にとってどうしても欲しい土地(悲願の土地)だったようで、そこから今では考えられないようなお寺&お坊さんの血なまぐさい物語が始まるのです!!
なんとこの土地は弘法大師が高野山開創の時にもともといた丹生明神から譲り受けた土地であると絵図や書物に記載し正当性を訴えています。
この話はとても怪しく、この土地が欲しくて仕方がないので勝手に作った作り話のようです。
僧兵も三千人くらい雇っていたので、領地(荘園)を広げることは死活問題だったのかも
しれません。
うまく朝廷に働きかえ領地を取ったと思ったら、京都のお寺にまた取り返されたりと
鎌倉時代までずっと揉めまくっています。
最終的には荘園を支配していた地頭(湯浅氏)にうまく近づき味方につけやっと高野山領になると手のひらを返して湯浅氏を攻め滅ぼそうとします。
結局、滅ぼすことはできず、南北朝時代に湯浅氏を地頭にしたままで高野山領となったようです。
いわゆる湯浅氏の中間搾取がいやだったのでしょう。全部欲しいといことかもしれません。(笑)
1-4
安楽寺
今回、修理を終え美しい姿に甦った安楽寺多宝小塔が何故、存在するのか残された仏像から読み取ることができました。
1-5
多宝小塔自体は南北朝時代の建立で国内に残っている多宝小塔の中でも最古級で最も質が高く単独建造物では唯一国の重要文化財に指定されています。
建物四面の内、正面部分だけが他の面よりも圧倒的に木の腐食があり、一般的に堂内に祀られているのではなく鞘堂の中に正面部分を開放されていつでも外から拝めるようにしていたことが分かったそうです。
ここにも読み取れる歴史があります!!
1-6
ただ、中に本尊として祀られている大日如来像はまったく語られることもなく未調査のままだったようです。
2-6
こちらの大日如来は平安後期11世紀ごろの造像で高さも20.6cmと小さなお像です。
一般的には多宝塔に祀られる大日如来は智拳印を結んだ金剛界のものになりますが
こちらは定印を結んだ胎蔵界の大日如来。
では何故、胎蔵界なのか?
それは高野山の大塔(五間四方の大きな多宝塔のこと)の本尊がまさしく胎蔵界の大日如来で高野山の宗教的シンボルの例に倣ったものと考えることができます。
ちょうど多宝塔が建立された南北朝時代は、この土地が高野山領になった時と重なります。
領民に知ら示すためにも高野山領である大きなイメージと権力の象徴のためのものだったと推測できます。
そんなことを小さな大日如来さんから読み解くことができます。
3-2
こちらは安楽寺と書かれた扁額
ここでも面白い発見があったようです。
扁額と多宝小塔の床板が同じ木から作られたことが解体修理で判明しました。
4-4
阿弥陀如来坐像 87.5cm 平安時代12世紀 町指定重文
京都のお寺(寂楽寺)が支配していた時に京都の仏師が関与して造像されたと考えられる。
4-5
5-2
観音菩薩立像 69.3cm 平安時代12世紀 (初公開)
阿弥陀如来坐像と作風も共通しているので三尊として造像されたと思われる。
5-4
台座も平安時代当初のもので貴重なものである。
5-5
6-14
四天王立像 平安時代から室町時代 初公開
異なる二組の二天像からなる四天王で増長天・持国天は12世紀の作
こちらは造形からも在地の仏師の作と考えられる。
6-3
6-4
6-5
6-6
6-7
6-8
6-12
6-13
色は塗りなおされているが、この地域に伝わる四天王の味わいを感じ取れる。
7-1
薬師如来坐像 日光菩薩立像 平安時代12世紀 町指定重文
(パネル展示)
安楽寺の本尊とその脇侍像
ただ、寺号のごとく本来の本尊は阿弥陀如来と考えるのが正しく、もとは消失した東光寺
の本尊像であったと考えられる。
8-1

下湯川観音堂に伝わる仏像
調査すると平安時代の仏像がごろごろあった
20-2
観音菩薩立像 69.3cm 平安時代 パネル展示
観音堂本尊で在地仏師の作と思われる。
21-2
阿弥陀如来坐像 44.4cm 平安時代11世紀 初公開
平安時代末期に造られた、きりりと整った風貌が特徴の新発見の阿弥陀如来
小さな像であるが端正な顔立ち、残念ながら腐食が激しく印相が確認できないが
台座に南無阿弥陀仏と墨書されているので阿弥陀如来として伝わっています。
像のそこには「運慶作」と記されています。
21-8
確かに運慶作としたくなるほどのよい仏像である
22-2
22-3
二天立像 71.5cm 73.1cm 平安時代11世紀 初公開
湯川川流域の最古の像とのことです。
板光背も平安時代のもので裾の部分(裙)が足元まで広がっているのは
かなり古様のようで目が飛び出している特徴などを考えると9世紀から10世紀まで
遡れるのではと議論が出ているそうです。
個人的にはこの二天、ものすごく惹かれるものがあります。
なので視点を変えて何枚かご紹介!
22-6
22-7
22-9
22-11
22-12
22-14
22-15
22-16
22-17

23-3
23-8
僧形坐像 17.7cm 室町時代15世紀 初公開
こちらも腐食が進み痛々しいお姿である。
僧侶の姿が彫られたものだが、台座が蓮であるが本来、僧侶の像が乗ることはないそうです。例外としてはお練り供養があるとのこと。
23-5
23-6
當麻寺に伝わる来迎会(練供養)では先頭を歩く観音菩薩の手には蓮台に座った往生者(中将姫)の姿が見える。
23-4
また、菩薩面の髻(もとどり)部分も残っており、この僧形坐像は来迎会の練供養に
使用されたとう推測ができる。
当地の老人に聞いてもだれも過去に練り供養があったという話は聞けなかったようです。
ここに来迎会があったとすると高野山麓では2例目の発見となるそうです。
こちらも腐食の進んだ僧形像が私たちにメッセージを伝えているのかもしれませんね。

牛連寺
26-2
破損仏群 平安時代12世紀
牛連寺護摩堂内に伝来した小さな破損仏
今から850年くらい前の仏像が頭や手足を失いながらもの
守られています。
26-3
26-4
26-5
これ以外のも法福寺には平安時代の仏像がごろごろ安置されていたようで
別に報告させていただきます。
今回なにげない古い仏像からこの地域の歴史、伝承を裏付ける推測が成り立ったこと
「仏像は語っている」ことを感じました。

是非、和歌山県立博物館の有田川流域の仏像に会いに行ってください。
期間は3月5日までです。
なんとすべて撮影可能という仏像写真ファンには嬉しすぎる博物館です。

その2に続く!






スポンサーサイト

コメント

非公開コメント

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。